ポラリス・ア・ラモード

インタビュー

保育士・インターナショナルスクール勤務 / 西田 佑紀さん「自分の笑顔の源泉“ワクワクすること”を大事にしたい」《前編》

haru

2019/08/09

インタビュー polaris for YOURSELF vol.9

保育士・インターナショナルスクール勤務 / 西田 佑紀さん

「自分の笑顔の源泉“ワクワクすること”を大事にしたい」《前編》

自分の生きる上での指針やポリシー、「ポラリス(=北極星)」を持つ人たちのインタビュー。

今回は、笑顔がめちゃくちゃ可愛い保育士さん西田 佑紀(ゆうき)さんとお話しました。

ゆうきさんはどうして保育士さんを目指したのか? 保育の業界に対して思うことは?これからやっていきたいことは?

たっぷりとお話をお伺いしました。

ワクワクするかどうかが、全てを選ぶ基準!

—— ゆうきちゃん、今日はよろしくね。さっそくですが、ゆうきちゃんのポラリスを教えてください。

yuuki:人がどう思うか、じゃなくて自分にとってそれがワクワクすることがどうか、っていう基準で物事を選んできたなと思います。保育の道にいく決断をした時も、大学進学決めた時も、自分がやりたいと思った・ワクワクしたからそうしました

夏休みを待ってる子どもたちの感覚みたいな感じ。なんかわからんけど、楽しそう!みたいな(笑)

—— 子どもの頃は、夏休みが嬉しい、明日になったらお友達と遊ぶのが嬉しい。でも、大人になって「月曜日来た、また仕事開始…」ってなっちゃう人が多いかも。ゆうきちゃんのワクワクすること、今日はたくさん聞きたいです。

保育園の卒園日。保育士になって戻ってくるって決めた。

—– 保育士になりたい!って思った最初の瞬間は覚えてる?

覚えてます。実は、自分が通っていた保育園を卒園するその日です。絶対に戻ってくるって園長先生に宣言しました(笑)

私は自分が通っていた保育園が本当に大好きだったんです。日曜日に保育園に行きたくて泣いてたくらい(笑)

子どもと先生の信頼関係があって、お母さんたちも先生のことをめちゃくちゃ信頼している感じが私たち子どもにも伝わっていたなと思うんです。私にとっても、保育園はすごく安心できる場所で、私が3歳と5歳の時に担任をしてくれていた先生のことがとにかく大好きでした。私がいたクラスはめちゃくちゃ元気でやんちゃなクラスで、先生とはすごくバトったりしたことも沢山あったけど、先生はいつも全力でうちらと向き合ってくれたんです。

私たちが広告の裏に書いて渡した手紙にもお返事をくれるような先生でした。その先生にとても影響を受けて、その先生みたいになりたいってめちゃ思ってました。それで、卒園式の日に、私絶対ここに帰ってくる!って決意して

園長先生に「先生絶対私ここに帰ってくるから」って言ったんです。

好奇心のまま、いろいろと移り変わる夢。でも保育士を目指すところに帰ってきた。

—– 園長先生に宣言して、その後もずっと保育士になるって思ってた?

実はそうでもなくて(笑)好きなものや、なりたいものはその時々にありましたね。小6の卒業文集には留学したい。英語のお仕事がしたいって書いていました。PCのアプリがきっかけで英語にどはまりして、小4のクリスマスプレゼントは《英和和英辞典(カラー版)》(笑)それを毎日読むのが楽しくて。

中学の時にはウエディングプランナーになるのが夢でした。ELT(English Learning Teacher) の先生がハワイオアフの出身の先生で、彼女が、日本からハワイにくる人たちのためのウエディングプランナーとしてハワイでもっと活躍できるために、日本語を話せるようになるために日本に来たことを知りました。その先生がきっかけで知ったウエディングプランナーっていうお仕事に憧れを感じたんですね。

—– その後の進路はどうしたの?

私は自分の好きなものや意味を感じるものしかしたくなくて、教科で言うと公民や地理ばかり勉強してました。その他は無視(笑)

高校を選ぶ時も、歴史や理科を一切勉強したくなく、得意だった数学やそろばんを生かしたいと思って商業科に進みました。

その頃は、高校を出たら就職するつもりでした。

—– 保育園にいた時に思い描いた保育士さんになる!という夢からは一旦は遠のいていったんですね。その後、やっぱり保育士になろう!と思ったのはどういうきっかけだったんですか。

高校三年生の時に水泳のコーチをして子どもたちに教えるのがものすごく楽しくて。あと、いとこの子どもを少し預かることがあって、その子と遊んでてもめちゃくちゃ楽しかったんですね。その子が帰った後に母が、

あんたやっぱりいい顔するね、子ども好きなんや。保育士とか向いてるんちゃう?」

と言ったその一言。

その時まではなぜか忘れてた、小さい時の保育士になる!という夢をその時に思い出して、けどその瞬間思った事は、

「私ピアノ弾かれへん」でした。そう気づいた時にまた母が一言、「じゃあピアノやったらいいやん。」って言ってくれたんです。それで「そっか。じゃあ、やるわ。」って言ってみたものの

うちは実は高校までしか行かせてくれない家で、大学以降は自分で学費を捻出して行かなくちゃいけませんでした。でも、これはもう自分でなんとかしようと決断。

その次の週に学校の先生に、就職ではなくて進学するわ〜って言って、ピアノを買って、レッスンに通い出して。

商業高校の先生たちには反対されたし、ある大学の商学部から推薦も来ててそれも勧められたんですが

「商学部で保育を勉強できるならいいけど。私がしたいのは保育だから、別にいい。と言って、推薦は有り難かったものの、他の方に譲ってほしいと辞退しました。

暗闇のアイアイ

そこから死にものぐるいいでピアノを練習しました。ピアノを弾くこと自体はそんなにワクワクすることはなかったけど、目の前に子どもたちがいることを想像してワクワクしていましたね。家ではアイアイをひたすら練習していました。

—–なぜアイアイ?(笑)

私はめちゃくちゃアイアイ弾くのが苦手だったんですよ、だからあえてのアイアイ(笑)

でも、ピアノの先生にも「あなたのアイアイすごく楽しくなさそう。誰もあなたのピアノで歌いたいとは思わない」って言われました。(笑)それを聞いて、「やったろー!!」って思ってさらに過激に練習。でも、どうしてもピアノを見て弾いてしまうんですよね。

そして、ついに私は楽譜や鍵盤を見ないために電気を消して、暗闇の中でアイアイを弾いていたんです(笑)

お兄ちゃんが帰ってきてそんな私を見て、何も言わずに扉を閉めていったなんて日も。(笑)

その練習の成果もあって、入社試験にピアノがあったんですが、アイアイで合格することができました!今思えば、その暗闇のアイアイがあったから、今の現場でほんとに困らなくなりましたね。

—-やるとなったら徹底的なんだね。

そうですね。それは父親の影響が大きいと思います。お金をもらうんだったら1年目も10年目も同じでプロはプロだぞってよく言われていたんですよね。

お父さんについて

—-今、お父さんの話が出てきたけど、お父さんはどんな人?

ずっと一匹狼で生きてきたみたいな人。それから、何かをする時は突き詰めてやっていく人。

でも、寂しかった人なんだろうなって最近父のバックボーンを聞いて思うようにもなりました。父のお母さん(私の祖母)はずっと家にいなかったので、甘えたい時に甘えられなかったんだということも知りました。

父は、家庭環境から早く家を出て家族を支えないとという気持ちがあって高校を卒業してから大手の会社に就職したんですね。

趣味でバイクやジェットスキーに乗っていて、それが父の中で唯一癒される時間だったそうです。その後、あるきっかけで仕事を辞めて、ジェットで生きていく!と決めて、バイトをしながら選手としてジェットスキーの大会に出始めることになります。単身でロスに行ってジェットをもっと学んだりもしたようです。

日本に帰国した後も選手として生きていくと思ってたけれど、絶対に敵わない選手が出てきたことがあって、そのタイミングで自分が選手を支える側になると決めて、日本代表の選手のためのメカニックに転向。今もメカニックとして生きている人です。

—-かなり決然と自分の決めたことをやっていく、という感じのお父さんだね。そんなお父さんは、小さい時のゆうきちゃんにとってどんな存在だった?

実は…言いたいことを父にはほとんど言えなかったんです。まず、父と過ごす時間がほとんどなくて。

大会前は夜通し準備したり泊まりがけで家を空けることも多く、生活時間が違いすぎる。

私の家は母と兄と自分の三人家族だとも思っていました。

—-寂しかった?

当時はそこまで思ってなかったけど、大人になってから「寂しかったんだな」と気づいた感じです。参観とか、運動会とかももちろん来なかったです。年長さんの運動会の前の日のことをよく覚えているんですが、めっちゃ頑張って組体操練習して父に来てほしかったけど、父は大きい大会を控えてて…。幼いながらに「絶対来てはくれないだろうな、だから言わないでおこう。」と思ったんです。

今振り返れば、その瞬間以降から、私は父に自分の気持ちを言えなくなったんです。

八方美人で周りにあわせてしまう根っこは、『運動会の前日』だった。

—-その後、お父さんとちゃんと話せたタイミングはあったのかな

実はかなり大人になったあとだったんですが、22~23歳の時に、ありました。そして、ちゃんと話してから、ほんとに全てが変わったんです。

今の職場に来る時頃なんですが、自分の感覚で好きなことで生きている人にたくさん出会うようになって、ふとその時の自分を振り返ってみた時に、私は自分の全部を人にはさらけ出すことなく、隠して人と付き合ってきていたことに気づきました。自分のことをよく見られたい一方で、自分の全部を人にさらけ出したくもなくて、壁を置きつつも八方美人に振舞ってた。人はなんで私の上っ面しか見ないんだろうって思ってたけど、それって自分が自分を出してないからやんって気づいたんです。

—-そうだったんだ。今の素直でまっすぐに自分らしいあり方を伝えてくれるゆうきちゃんからは想像できないです。

うん。そうなんです。例えば、人に会うための準備をめちゃくちゃしてましたね。この人に会うならこういう服装で、メイクで、ネイルでって、人に好かれそうな装いを徹底的にしてた。自分が着たい・身に付けたいという気持ちからではなく、この人にはこういう私が好かれるんじゃないかな?という気持ちから装っていたんですね。いろんな顔を持ちすぎてて、私の本当の顔はどれ?とわからなくなってたんです。

—-ポラリスにあげてくれた「ワクワクする」ってことができないよね。自分が何が好きで何にワクワクするかが分からなくなっちゃう。

そうです。ほんとに笑ってなかった。18くらいからさらにそういう傾向が強くなっていったんですが、

私、口を開けて笑ってなかったんですよ。

18から22くらいまでの時、歯を見せて笑っている写真が一枚もなかった。

今のこのはじける笑顔からは想像できない。

—-今のゆうきちゃんからは想像できない〜〜

そうですよね(笑)そういう自分にはっきりと気づいて、もう自分の気持ちを隠したり人に合わせるのはもう全部やめよう!と思いました。でも、これがめちゃくちゃ難しかった。まず、自分との対話をしたことがなかったことに気づいたんですよね。

「ゆうきはどうしたいの?」って聞かれることが一番しんどいことだった。

たとえば、「何食べたい?」と聞かれて、その人が食べたいものと違うものを私が言ったら、嫌われるんじゃないかと思って…。

どこかで多分、いつか目の前の人がいなくなるんじゃないかとか、捨てられるんじゃないかとかそういう感覚があったんだと思う。

そうして思い返してみた時に、父のことが思い当たったんです。父は父なりに私のことを見てくれたんだろうけど、当時の私は「私なんかには興味がなく仕事してる」って感じてしまってたから、「見捨てられへんように、自分を作る」って感じだったのかもしれないです。それが父だけでなく、他の人にも適応されて、人に合わせて自分を作って、うまくいかないことがあったら、自分のせいではなくて全部相手のせいにしていました。

そうやっていろいろ気づいてその原因にも思い至った時にほんと、

おえ〜〜〜〜ってなりました(笑)

そこからは心理学を学んだり、いろんな本を読んだりしました。

自分のメンタルと向き合って、いろんな事で一喜一憂したり、感情の起伏がめっちゃ激しいことが自分の生きづらさとか生活のし辛さに繋がっていることがわかりました。そうなってしまう原因についても、すごく考えました。

もっと自分の幸せを考えて生きていきたいと思った時に、自分はいつ自分を閉ざしてしまったんだろうと考えて、

辿っていったら、父に本音を言えなかった『年長さんの運動会の前日』に行き着いたんです。

あ、これは、ちゃんと父と話さないといけないんだと気づいた。

その後4回くらいは、いやいややっぱり止めておこうと蓋を閉めました。(笑)

でも、ずっと胸にはひっかかってて、「オトンや。」って自分は分かってる(笑)

ここで言わんかったら私一生進まれへんやろうなって気づいてしまった。

お父さんがどう思ってたのか知りたい。それが「自分としては、どうも思ってなかったよ」ということであっても、

何か答えがないまま私がどんだけ考えても、お父さんの気持ちは私が持ってないものだから、父に聞くしかないし、自分の気持ちも父にちゃんと聞いてほしいなって思ったんです。

ひたすら鏡の前で練習。「お父さんあんな、話がある。」「お父さん、あんな〜。」ってめっちゃ練習(笑)

そうして、ついに父と向き合う日がきました。

お父さんと向き合った日

ついに、父を食事に誘いました。

食事中は、「おいしいな〜」なんて、とりとめもない話をしてたんですが、帰りの車でついに「あのさ〜話あんねん。」と切り出します。

そのトーンは、自分が練習してた・イメージしてたトーンとは全然違って、喧嘩売るくらいのテンションでした(笑)

「覚えてるかわからへんけど、年長さんの運動会、あれ来なかったやん!あん時めっちゃ来て欲しかったんやんか。てゆうかさ、小学校の時の運動会も来なかったやん!しかも、参観日も来なかったし。そろばんの大会の時もおらんかったやん。」って、

父がいなかった時の記憶がば〜〜〜って出てきて。

中には自分で自覚できていなかったこともあって、自分はこの時もお父さんにおってほしかったんだと喋りながら気づいてきました。

「こうやって相談したかったのにさ!おらんかったやん!」て言いながら、「あ、自分って相談したかったんや。」って気づいたり。

—-そうなんだ。そうたって、勇気出して言えたのがほんとにすごい。そうやって言ったあとに、どんな気持ちになってきた?

言うだけ言ってスッキリした後に、「でもさ。私、父さんとさ、ドーナツ屋さん行ったやん。あれ嬉しかってん。」「父さんと一緒にジェット乗ったやん。あれ、面白かった。」

って、今度は一緒にいて楽しかった記憶もばーって出てきて、全部言って。

「私、生まれ変わってもお父さんの子どもがいいって思うねん。…それだけ。」父「おう。」みたいな。

—-お父さんに寂しかったこととか辛かったことを言えた後には、嬉しかったこととか、感謝の気持ちが出てきたんだね。

そう。それから、「仕事でよく海外に行ってた父を見て、英語にも憧れの気持ちが出て、今の仕事に繋がってると思う」って話もしました。そしたら、父が初めて祖父について話してくれたんです。祖父も海外で仕事をしていたという話を初めて聞いて、祖父もずっと家にいなかったということを聞いて。自分のルーツが祖父にあるということもその時初めて知って嬉しかったですね。

—-お父さんに自分の気持ちを言えて、自分のルーツも分かってからどうなった?

まず、父との関係がすごくよくなったし、自分自身の生活や表情もすごく良くなったねって言ってもらうようになりました。

これまで何かあったら全て人のせいにしてたけど、その後からは自分に何か嫌なことがあったとしても、

自分にも悪いところはあったんじゃないかという反省の気持ちが出てくるようにもなったし、人を許すことを初めて覚えたかもしれないです。…きっと、どこかで父を恨んでいたんだと思います。一緒に過ごしてくれなかった父。加えて、兄がわりとやんちゃな人で、お母さんは兄に構いきり。私は一番構ってほしいときに、構ってもらってなかった。でも、父も子どもの頃同じ境遇だったんだと思うと、父の感覚もとてもわかった。人の痛みにはじめて気づくというか、そんな感じでした。

—-めちゃくちゃ素敵な話だし、これは今原因不明の辛さに苦しんでいる方にも何かヒントになる話のような気がしています。

向き合いきれていなかった何かに向き合うと、世界ががらっと変わるんだね。

「大きくなったら何になりたいですか。」

—-話はもどるけど、暗闇のアイアイの練習のおかげで、試験に受かって保育士になれて。

その後「この園に戻ってきます」宣言をしていた、自分の通っていた保育園で働けた?

実は、実習には行けたんですが、その園は先生が20年以上とか長く勤務する園だったので先生の空きがなくて。

違う園で勤務したんですが、素敵な園長先生、レベルの高い先生たちに囲まれてすごく勉強になりました。

—-その園から今のインターにうつったきっかけは?

最初の園ではトータル3年間働いたんですが、

2年目に受け持ったある男の子が、ある日私のところに来て、私に聞くんですね。

「お名前は?」

「ゆうき先生です。」

「何歳ですか。」

「21歳です。」

「大きくなったら何になりたいですか。」

その質問で、ハッとしました。「大きくなったら何になりたい…?」

私は大きくなったら先生になりたいと思っていて、先生になった。

そんな今、自分の夢ってなんだろうってすごく考えました。

自分を振り返った時に、私は実はすごく英語を話したかったんだと気づきました。その後

ある女性、サファイアと出会ったことから、「英語で仕事をしたい」という自分の気持ちが溢れ出していきました。それが今のインターでの勤務に繋がっていきます。

編集後記

サファイアさんって誰?英語で仕事をしたいと気づいた後、ゆうきちゃんはどうした?気になることはいっぱいだと思いますが、ここで前編を終了します(笑)

お父さんと向き合わないと、私は変われない。次に進めない。ってそう気づいて勇気を出してちゃんと向き合ったゆうきちゃん。

そのファイトがあったからこそ、今の素敵な笑顔があるんですね。

自分と向き合い、乗り越えたゆうきちゃんはその後の人生でどんな人に出会い、どんなワクワクを得たのでしょうか。

後編もお楽しみに!