ポラリス・ア・ラモード

インタビュー

家美人コンサルタント・僧侶 / 大岩 エディさん 「人生のすべては“体験”」《前編》

haru

2020/02/09

インタビュー polaris for YOURSELF vol.10

家美人コンサルタント・僧侶 / 大岩 エディさん

「人生のすべては“体験”」《前編》

自分の生きる上での指針やポリシー、「ポラリス(=北極星)」を持つ人たちのインタビュー。

オリンピックイヤー2020年最初のインタビュー記事は、家美人コンサルタントで僧侶の大岩エディさん

僧侶としては幸春、かつて落語を習われていた時の高座名として百合虎(ゆりこ)という名前を持つ大岩さん。

エディさんはニックネームですが、いつも呼んでいるようにエディさんとお呼びします。

家美人コンサルタントって?僧侶?かつては落語家?聞きたいことはいっぱいですが、さっそくインタビュー開始です。

人生は“体験”でしかない

—- エディさん、今日はよろしくお願いします。家美人コンサルタントで僧侶のエディさんの経歴にはこれまでも興味津々だったんです。今日はとても楽しみにしています。さっそくですが、エディさんのポラリスについて教えて下さい。

“人生のすべては体験である”ということかなと思います。私は人生は体験がベースになっていると思っています。

人の命を奪うこと以外は全部やっていいと思っています。

—–どんなきっかけでそう思うようになったんですか?

3-4年前に一冊の本に出合うことがあり、大きなきっかけになったと思います。前世療法という本なんですが。

—–前世療法!?のっけからすごい話キタ!

うん(笑)催眠療法で前世の記憶を蘇らせるという趣旨の本だったんです。頭痛があって治らない人など、何かの症状に悩んでいる人を催眠状態に入れて前世にどんどん戻っていってもらう…そして頭痛の種が前世にあるということが分かったりするんです。

その本の中に“人生は体験でしかない”と書かれていて、当時の私にはその言葉がずばん!ときたんですよね。

—–その時まではそんな風に思えていなかったんですか。

うんうん、全く思ってなかったですよ。どうして私はこんなに不幸ばかりに襲われるんだろうとずっと思っていました。

—–私の中ではかなり意外です。エディさんは昔からハッピーな感じなのかなというイメージを持っていたので。今までどんな出来事があってそんな風に思えるようになったのかお話してもらえますか?

長いよ(笑)

—–いいですよ!!(笑)

ベースは超ネガティブ。とにかく未知の世界へ行くのが怖い

私は、実はもともとベースが超ネガティブなんですよ。根っこがネガティブで。

“やっちゃいけないことリスト”が多い人と言うか。小さい時からそうでしたね。ルールに縛られている感じで。

親が厳しかったというのも大きく影響していたと思います。父親がすごく厳しい人で、ちょっとでも父親の気に障ることがあれば激怒するような感じだったんです。ただその“父親ルール”がすごくアバウトすぎて、時々によって反応はまちまちで大変でしたね。

—–そうだったんですね…。お母さんは?

母親は少し気の弱い人で、父親の顔色を伺って父親と一緒になってダメだよって言う感じですね。

だから私は何が良いのか悪いのかが分からなくなって、結局は何もしないのが一番良いんだという風になってしまっていました。

その後大きくなっていっても、世の中の決まりごとやルールは守らないといけないものと思って、自分の考えというものがありませんでした。勉強も全然できなくなって、やる気も起こらないし…なんのために生きているか分からないという状態でした。

高校3年生、18歳の時には一度飛び降りようとしたこともありました。もう先が見えないと言うか、そういう気持ちになってしまって。とはいえ死ぬのも怖い。だから結局は飛び降りることはできませんでした。

—–そんな出来事が…。今のエディさんからは想像ができない過去です。その後はどんな進路をとったんですか?

バイオテクノロジーの専門学校に行きました。生物や化学が好きだったんですよ。天体とかも好きでしたね。

不思議と“生物”という教科は何の勉強もせずにできちゃっていたのと、大学がすごく怖くて専門学校を選びました。

未知の世界に行くのがすごく怖いという思いがあったんです。

自分が知りようがないところに行くのがすごく怖くて、ちっちゃく収まっていたという感じなんです。とりあえず自分の得意な生物だけで入れるところを選びました。

就活から逃げて奈良の山奥へ

就職をするタイミングになって、卒業の年に阪神大震災が起こりました。

西宮の祖母の自宅が全壊。1月で、私がもうそろそろ専門学校を卒業してフリーになるタイミングだったんです。

祖父母が奈良で別宅を構えて生活をすることになったんですが、何かと不便だということで私が手伝いをするために一緒に住み始めました。手伝いというのは表向きで、実際には就職活動をするのが怖すぎて、私はそこから逃げたんですよね。

その後祖父母と3ヶ月ほど暮らすんですけれども、あまりにもまったりしすぎた生活になっていて、

ある時に“私はこのままだとどうなってしまうんだろう”と、はたと気づきました。21-22歳にもなって、山奥に引っ込んで。

—–山奥にいる自分にはたと気づいた。そこからどうしました?

実はおじいちゃんとおばあちゃんには、私免許取りに行くけどまた戻ってくるよ!と騙して(笑)家を出ました。実際に免許は取ったのですが、取りに行くついでに自分は何がしたいのかなって一度考えてみたんです。でも、本当に怖がりだったし世界がすごく狭かったから就職の選択肢も全然分からなくて。自分に自信もないし、父親からは23歳くらいならもうおばさんで歳いっているみたいに言われて…。

—–歳!?

はい。当時の自分もへんに“私はもう歳なんだ”と思ってしまって(笑)

歳で何にもできなくて、調べようもないし、可能性が全然ないと思ってしまいました。

アパレル業界へ。店長・マネージャーまで上り詰めたが、思いもよらぬ出来事が

それでもあれこれ考えていた時に、父が呉服の卸をしていて母が百貨店で働いていたこともあり、“洋服屋さんだ!”と思い至りました。洋服は好きだったんですよね。アパレルの会社へ最初は販売のアルバイトで入ったんですが、半年で正社員になって、その半年後には店長になって、その1年後にはトレーナーになって、その1年後にマネージャーになってと、立場が変わっていきました。

私はどうやらお店の売り上げ目標など、小さい目標が目の前にあると達成していきたくなるタイプだったようですね。

—–いきなりの大躍進。すごいです。

ただ、落とし穴があったんです。これまでお話したようにすごく狭い世界に生きていた人間がいきなりそういうところに入っちゃったから、“これはこうじゃないといけない”というような思いがすごく出てしまって、お店もルールでガチガチにしてしまったんですよね。売り上げは実際にはめちゃくちゃあがって、会社から視察が入るくらいの店舗になったんですが、ある日びっくりする出来事があったんです。スタッフで落ち込んでいる様子の子がいたので、自分のもとに呼んで話を聞こうとしたら、うわーっていきなり泣き出されて。どうしたの!?と聞いたら、“(エディさんの旧姓)吉田マネージャーが怖いんです〜〜〜〜〜〜”と。

唇ふるわせて、そう言うんですよ。自分ではそうやって怖がらせるつもりは全くなかったから、もう青天の霹靂です。

その後、自分の5歳くらい上の男性で事務職の方にも唇をふるわせて泣かせる・・・もう一人の女の子も・・・

—–唇をふるわせて。

そうそう…!しどろもどろになっていてね。それはもうショックでした。私、周りの人たちを怖がらせようと思ってこれをやっているんじゃない!とすごく思って、すぐにすっぱりと仕事を辞めたんです。28歳とか、29歳くらいの時ですね。

ただ、もう辞めたもう一つの理由に結婚予定だったというのもありました。

夫がうつ病に。そして気づいたこと「女が養ったっていいじゃん!」

結婚してしばらく経ってからは、何が人の役に立つんだろうと考えました。世の中の役に立つ事をしたいと思って栄養学を一時期勉強した時期もありましたが、結婚した相手が転勤族で、初めは大阪にいたんだけど次に横浜に引っ越すことになって。引っ越し先ではまた短絡的でもあるのですが、派遣ぐらいしか思いつく仕事がなくて。派遣で事務をしていました。

仕事は結構うまくいったけれど、私は虚しい気持ちになってしまったんですよね。アパレルの時はやったらやっただけ給料が上がったり、マネージャーになったりするんだけど、派遣ではそういうことが何もなくて、仕事ができようがちょっと時給が上がるぐらいで達成感も充実感も感じることができませんでした。つまんないなと思いながらも今後も夫の転勤もあるし仕方ないなと思ってやっていました。

その後、私たち夫婦にとっては大きい出来事がありました。

派遣社員としていくつかの勤務先で勤務をした頃、横浜に一緒に住んでいた夫が急に転職をして大阪に行くと言い出して、勝手に就職を決めて一人で暮らし始めてしまったんですよ。一方の私は派遣で新しい勤務先でまだ1ヶ月くらいしか勤務していなかったので、さすがにそのタイミングで辞めるとは言いづらく。3ヶ月後ぐらいに、夫を追いかけて私も大阪へ行きました。

でも、その会社が夫をうつ病にしてしまったんです。 結構自由な夫で、私へも「今から帰ります」という連絡ができない人。ご飯いるいらないとかそういうコミュニケーションが取れない人だったんですね。転職した会社は生命保険の会社なんですが、自由な働き方だったのもあり一日一回会社に勤務終了報告の電話をしないといけなかったのですが、そういう電話すらできなかったんですね。

営業の成績でも追い詰められて、変に夜中まで営業しちゃったりするから昼と夜のバランスが完全に崩れて。

ある日突然、「もう何も考えられない」と言って泣きながら家に帰ってきました。

そこからはうつ病にかかって、夜中も徘徊のようにどこかに行ってしまうんです。だから私は夜中中ずっと探し回ったりしてましたね。

当時私は派遣で働いていたので、昼働いて夜はそういう状況だったから全然眠れなくなって。

—–かなり辛い状況ですね…。

はい。それに、電気とガスを止められて、ご飯も1日1回、しかも白ご飯に鰹節をかけただけというもの。妊娠をしていたのですが、そんな状況なので流産もしてしまいました。天井がぐるぐる回るようなめまいにも襲われて、歩けなくなっちゃったんです。

そういう極限の状況で一度は別居する事になり、夫は大阪の実家へ、私は横浜の実家に帰ってしばらく過ごしていたのですが、しばらく経って、「ずっとこのまま実家にいて別々に暮らしていると夫とは別れてしまう、それはなんか違う…」と思ってまた大阪に帰って同居を始めました。

その後も夫はうつ病のままで、結構長くて結果的には4-5年くらいうつ病にかかっていましたね。目の焦点が全然合わなくなって、うつ病だけではなくて躁鬱病とも診断され、怒り出すと手がつけられないし、支離滅裂なことを言うこともありました。

…でも、まあそれはいいかと思ったんですが。

—–え、それはいいんですね!(笑)

うん。それはそれ。という感じでしたね。自分もとりあえず働ける状況になったので派遣でもう一度働き始めました。

その頃、気づくことがありました。私は、結婚したら男の人が女の人を養うのが当たり前という価値観を持ってしまっていたんですね。でも、実際はそんなこともないよな、女が男を養ってもいいじゃんとふと気づいて。だから私が手に職をつけようと思いました!

ライフオーガナイザー検定との出合い

その頃、独立系雑誌が流行っていたのですが、その中に「アントレ」という雑誌があって。とりあえずどこかのショップのオーナーにでもなろうと思ってその読んでいたら、その雑誌にライフオーガナイザー協会」という私が初めて「片付け」を学んだ協会の理事長の記事が2ページぐらい掲載されていたんです。その記事を夢中で読んじゃいました。

その記事には、思考の整理が必要です。」ということが書かれていて、その時の自分にはかなり新鮮でした。現在私は「家美人コンサルタント」という片付けを専門とした仕事をしているのですが、その仕事に繋がった最初の大きなきっかけです。その記事には、物の整理の話も確かに書いてあったはずなんですが、物の整理だけではなくて、思考の整理をすることが大事だよと書いてあったのがとても印象に残ったんです。

その2日後には早速、ライフオーガナイザー検定の2級を受けることになりました。

編集後記

さまざまな出来事を経て、現在の「片付け」の仕事に繋がるきっかけを得たエディさん。

今の明るくて面白いエディさんの姿からは想像がつかないような、大変な過去もあったことをインタビューで始めて知りました。だけど、そういう過去の話をしている時も笑いをまじえてとにかく明るいんですよね。

後半の記事では、どうして僧侶にもなったのか?落語を始めたきっかけは?など、気になることを聞いていきつつ

「人生は体験」というポラリスについてもたっぷりと聞いていきます。壮絶とも思える過去の話をどうしてそんなに明るく話すことができるのか、そのヒントはまさにこのポラリスにありました。

後編もどうぞお楽しみに!

編集長haru