Webメディア“Blind Up.〜心地よいニュートラルな生き方を” 代表 / 坂 彬光さん「伴走者であること」《前編》
2019/07/04
インタビュー polaris for YOURSELF vol.8
Webメディア“Blind Up.〜心地よいニュートラルな生き方を” 代表 / 坂 彬光さん
「伴走者であること」《前編》
自分の生きる上での指針やポリシー、「ポラリス(=北極星)」
今回は、ポラリス ア・ラ・モードとほぼ同時期に立ち上がったWebメディアの代表の坂 彬光(さか あきみつ)さんをお迎えしました。
坂くんと私の出会いは、まだ彼が関西大学の学生さんだった時。ご縁があって、一緒に就活生応援企画をしていました。(懐かしい)
それから数年間の時間が経って、彼がどんな毎日を送ってここまで来て、
任意団体であり、Webメディア名でもあるBlind Up.を立ち上げることになったのか。色々と聞かせてもらいました。
現在の活動について
haru: 改めて今、坂くんがしている活動を教えてください。
saka: ライフワークとして、働き方や生き方に悩む当事者を勇気づけるWebメディア、Blind Up.の活動をしています。
生き方や働き方に悩んできた人たちが何度でも再挑戦できるような社会の実現を目指したメディアで、
僕が代表として運営している任意団体名でもあります。
Blind Up.のメンバーと一緒に。
これでお金儲けをしようとかそういうわけではないんですが、自分の人生のミッションとしてやっている活動です。
ライスワーク、ご飯を食べるための仕事は、リノベーションの会社の広報や総務としてシェアハウスの運営をしたり、
西淀川区にある訪問看護の会社でクリエイティブやWeb周りのお手伝いをしています。
haru: Blind Up. はライフワークとしてやっていて、ライスワークも他にあるんだね。その時点で興味深いです。
坂くんのポラリス〜「伴走者であること」
haru: 早速ですが、今日のインタビューのテーマである、坂くんのポラリスについて教えてください。
saka: 自分が人生を通して大事にしたい考え方や指針のようなものですよね。
自分の大切な人や、すごく悩んできた人たちの“伴走者”であるということを大切にしています。
haru: 伴走者、横で一緒に走っていく人。誰かにとって伴走者のような存在でありたいということなんですね。
詳しくお伺いしていきます。まずは、そのポラリスを見つけるまでの道のりについて教えて下さい。
saka: これまで生きてきた中で、自分と向き合ったり、自分のコンプレックスを誰かに開示していく中で、思い至った感じです。
自分が本来人に見られたくない部分や、人生単位での病と言うか、そういう部分も含めて受け入れてくれる人がそばにいてくれて、
伴走者のような存在でいてくれていることって、すごく素敵なことだなと思っています。
僕も誰かに対してそういう存在でありたいし、世の中にそういう関係性が溢れれば人生ハッピーだなって思っています。
極論、そんな関係性があれば「死なへん」なと思っています。
haru: 死なへん?
saka: 死にたくはなくなるんじゃないかというか。居場所感というか、自分がそこにいていいんだなと思うと言うか。
伴走者がいてくれたらそう思えるんじゃないかなと思っています。
haru: 今日はインタビューに同席してくれた、Blind Up.の亀井さんもいるんですが、彼はまさに坂くんにとっての伴走者であるのかしら。
saka: 本当にそうだと思っていて(亀井さん:なぜか、ぎょっとしたような顔をする(笑))
実は彼とはまだ出会って一年なんです。ちょうど昨年の7月1日に彼と出会ったんですが、
彼がいなかったら、Blind Up.を今のこの状態に持ってこれたかどうかは分からないと思っていて、
亀井は僕にとって一番最初の伴走者だったんだなって思っています。
今日のインタビューも同席してくれた。当日に「行こうか?」みたいな感じでふらりと来てくれて(笑)
haru: まさにそのさりげない感じが「伴走者」っぽい感じ!(笑)
今、ここにこうして居合わせてくれているのは素晴らしいね。
坂くんと、亀井くん。
大学卒業して、すぐ起業。社会的に認められても、嬉しくない自分がいた
haru: もともと坂くんはどんな仕事をして、今の活動にいたっているのかな?
saka: まず、大学から卒業して新卒ですぐに起業しているんです。
haru: 大学卒業後、就職ではなく起業という選択をしたのはどうして?
saka: 二つ大きな理由があって、実は自分がとても仲が良かった親友が24歳という若さで自殺をしてしまいました…。
そして、その後自分の祖父が老衰で亡くなったというのもあり、「死」というものが2回連続であって。
インターンをしていた会社も葬儀関係の会社だったということもあるんですが、死と向き合う時間がとても長くて。
当時、23歳ぐらいだったんですが、人生単位で考えた時に、直感的/感性的にいいなと思える方向に進んでいきたい、
自分の選択に嘘をつきたくないと思ったんです。
たとえ苦しかったとしても、楽しいと思える方向がいいなと思ったんです。
結果どうなろうが、結果つぶれようが、 面白そうな方向に行きたい。こういう人生もあってもいいんじゃないかと思って
就職や、実家の事業の後を継ぐという選択肢もあったんですが、起業という選択をしました。
haru: 実際に起業してみてどうでした?
saka: 実際にやってみて面白いこともあったけれども、なんとも言えない空虚さというかそういう気持ちを感じることもありました。
大阪は水の都とも言われているんですけれども、大阪府の助成金事業の一環として、川面にでかい寿司を流すという
ローリングスシーというプロジェクトを実施しました。
覚えている人もいるんじゃないかしら?ユニークな企画でした。by haru
LINE ニュースや Yahoo!トップニュースにも流れたし、地上波にも流れて、 プロジェクトとして成功しました。
周りの方々からもすごい!とたくさん言っていただいていたんですが…ふと立ち止まって考えてみた時に
会社の代表としてそのプロジェクトに参画していた自分だったんですが
はたしてその中で本当に「自分の役回り」があったかと言うと…なかったんじゃないかなと思ったんですね。
周りのメンバーがとても嬉しそうだったから、それを見て僕もとても嬉しかったというのはあったけど
正直なところ、自分は嬉しくなかった。
haru: プロジェクトは成功したけど、嬉しくはなかったんだね。
saka: そうなんです。なんでこんなに嬉しくないんだろう、成功しているはずなのになと、本当に自分でも驚きでした。
若くして会社の社長になってすごいやんっていう風な言葉もいただいたし、実際自分もそうなることを望んでいたはずなんですが
いざ実現してみたら、自分が思い描いていた幸せと全然違うなと気付いてしまったんです。
その瞬間にとっても苦しくなって。「…何のためにやっているんだろう」と思ってしまいました。その辺から割と下り坂でしたね。
haru: それは何歳くらいの時?
saka: 24歳くらいの時ですね。 一緒に会社をしているメンバーは何でも言い合える中ではありました。ただ、僕の根底にある悩みを言えず、辛く、悔しくて。
周りの会社勤めをしている友達が羨ましくて。 自分の居場所はどこにあるんだろう、自分の役回りって一体なんだんだろうと思って。いろんな人に話も聞いてもらいましたね。
プロジェクトメンバーには営業やプランニングができる子がいたりとか、イベントの企画ができる子がいたりとかしたので、
僕はデザイン周りのことをこちょこちょとやりつつ、もっとプロフェッショナルな人に外注をするようなことをやりとりをしていたんですね。そのことをある日ふと話していたら、「それはディレクションという役回りなんだよ」ということを
近所の会社の社長さんに教えてもらったんです。
haru: 近所の社長さん!?
saka: はい、そうです(笑)その方からそう聞いて、「そっか、そうなんだ、これってディレクションっていうんですね」ってなって(笑)自分のやっていたことがやっと少し輪郭を得てきた感じでした。
その後、その方が取引先の社長さんを紹介してくださって、
実力もこれからもっとあげて行きたいだろうし、修行だと思って入社してみたらと言ってくださいました。
その頃は、自分は代表をしていた会社で寝泊まりして仕事しかしてなくて、部活みたいだなと思って仕事に邁進しつつも
さっきお話したような空虚さも抱えていたので、自分の役割や居場所が欲しいというか、 自分を試す場所が欲しいという気持ちがあったので、思い切ってその会社に入社させて頂くことになりました。違う世界を見るのもいいなと思って。
はじめて、会社員やってみて
haru: その時の仕事は?
saka: Webディレクターの仕事を初めてやりました。 仕事は多岐に渡るようなものだったのですが
デザイナーさんやコーダーさんなどいろんな役回りの人たちに仕事をお願いしていく、現場監督みたいな仕事でした。
haru: やってみてどうだった?
saka: ・・・・しんどかったです。実際のところ全然活躍できなかったんです。一切。
その時はじめて、自分は同時並行で仕事を進めていくような行為が得意じゃないんだなということに気づいたんです。
その時までも、うすうすそういう風に感じることもあったんですが…いざはじめて、そうした制作会社の会社員として入ってみて
全然できへんなと思ったんです。 スケジュールを管理したりするのも、自分で文章を書いていくっていうことも…。
ちゃんとした日本語になっていないと言われたり、そもそも日本語を使えるのかと言われたりもしました。
結構厳しかったんですけれども、それぐらいのクオリティを求められていたからだと思っています。
ただ、その頃には日本語を話すっていうことも億劫に感じるようになってしまったり、人と話すのも怖くなりました。
haru: 武者修行のつもりで会社員として飛び込んでみたものの、苦しくなってしまった。
saka: ほんと、ずーーーっと苦しかったんです。成果が見えたなと思っても納品の段階でトラブルになってしまったり。
会社員をしていて、理想の仕事で好きなことをしているはずなのに、
なんでこんなにうまくいかへんのやろうってずっと思ってました。
haru: その仕事自体は好きだったのかな。
saka: 好きです。だけどメチャクチャ苦しい。成果が出る人たちはいるはずなのに、自分は成果が出ない。
自分はこの仕事は一切向いてないんだと思いました。
めちゃくちゃ暇だから社内の議事録とか取引先の議事録をひたすら書いていましたが、
会社からしたら、お客さんがつかなければただの金食い虫ですもんね。めっちゃ居心地が悪かったです。
なんで自分はこんな仕事できへんのだろうとか、なんでこんなに仕事が回ってこないんだろうとかずっと考えていました。
毎日考えて考えて、そういう風になってくると体にも影響してくるじゃないですか。
よく体を壊して、すぐ会社を休んでいました。しょっちゅう熱も出ましたし。
haru: そこからちょっと抜け出せたかなと思えたような瞬間はいつだったんですか?
saka: 社内の新規事業でレンタルスペースを運営させてもらうというものがあって、人と人をつなぐ仕事をさせてもらった時に
お客さんがつくようになって、その事業の売り上げが少し上向きになったということがありました。
レンタルスペースの中で、関西で人気ランキングが3位にもなりました。その時はちょっと抜け出したかなという感じがしました。
多分僕は、事務的な仕事や、パソコンとだけ向き合って人の顔や人となりが見えない仕事というのは
得意じゃないんだと気づきました。人との関係性を直接つないでいくような仕事の方が向いてたんでしょうね。
haru: そうして、うまくいったときもまだ苦しかった?
saka: 苦しかったです。メインの仕事で、自分の好きな仕事であるディレクターで成果を出したかったんですよ。 肺に穴が開くほど仕事したんですが..。その時、自分が担当していたレンタルスペースの事業を他社へ譲渡するという局面になり、
その時に自分としても一旦区切りをつけて辞めました。こうして辛かったことをお話しましたが、
その会社では、礼儀作法も教えてもらったりいろんな人と会うことができて、めちゃくちゃ勉強にはなったんですよ。
振る舞い方、間合いの取り方とか。色々なことを学ばせてもらったとても大切な会社だったと思っています。
転職したけど、続く苦悩。苦し紛れの発信が、ターニングポイントになる
saka: 転職をして、ディレクターの仕事をしながらも、半分は人事・採用など人に会う仕事をするようになって、
以前よりは少しうまくいっていたような気がしました。ちょっとだけ(笑)
でも、その会社から求められていたのはあくまでもディレクターとしての仕事だったので、そこでまた体調が崩れてきてしまいました。
半年ぐらいで半鬱。かつ不眠症。 会社には行っているんですが、ほぼ寝ていなくて頭が回っていないし
聞いた話では、目が虚ろで焦点が合ってなかったようです。 手の震えも止まらなかった。
おかしかったと思います。今思えば「職業不適合」で、単純に仕事が合ってなかったんだと思います。
苦し紛れにタバコをよく吸うようになって(haru注:今はもう吸わないそうです)
あとnoteという媒体を使ってブログを書くようになったんです。寝れないから、ただただ、気を紛らわす為に書いていました。
haru: そうだったんだ…。その発信に対する、反応はどうでしたか。
saka: 実は、結構たくさん反応をいただいたんです。
「私も同じこと思ってました」とか、 「まさに私もこういう状況なんですがどうしたらいいと思いますか」とか。
ある30〜40代ぐらいの主婦の方から相談をいただいて、「家事や子育てを同時並行でやることが出来なくて、
自分が今何をしたらいいか頭の中で整理ができていない状態をどうにかしたい」という相談もありました。
「自分のそういう状況を誰かにきちんと伝えられるようになりたい」という相談ですね。 最初は、メッセージベースでやりとりをしていました。
一方で、その頃にはもう勤めていた会社へは辞めたいということを伝えていて
会社サイドからも「一回リセットをした方がいいかもしれないね」っていう風に言ってもらっていました。
そうして会社を辞めて無職になったんですが、一人暮らしだったので家賃を払うのが大変で退去して
持っているものとかもう全部捨てて、自分自身どうしようかなと思っていた時、
さっきお話した主婦の方の相談をオンラインの通話で乗ることがありました。
彼女が悩んでいたことを僕の方で言語化をさせてもらって、まとめてその方へテキストで送ったんですよ。
そしたら、とても喜んでくださって「あなたに聞いて、整理して貰えるだけで救われる。」って言ってもらいました。これってお金になる仕事ですよ!とも。
僕は「いやそんなんじゃないです」とその時は言っていたんですが。
相談をしてくれた女性は、これからどうやって行けばいいのか、はっきり分かったような気がしますと言ってくださいました。
僕としては、「こうやって喜んでくれる人がいるんだ。自分にも役割があるんだ」と、その時強く感じました。人から必要とされる喜びを感じた瞬間でした。
haru: すごく大きい体験をしたんだね。
saka: はい。とても大きい、大事な体験をさせてもらったと思ってます。一筋の光が差し込んだ気がしました。
一人暮らしの薄暗いベットの上で、ずっとひたすら自分の生き方について考えていたんですが
「そうだ、悩んでいる当事者の人達にとっての
伴走者のような存在になることが、自分の使命なんじゃないか」と、ついに思い至りました。
haru: 当事者っていうのは?
saka: 働くことに悩んでいる人、働いた経験があるけれども挫折経験がある人たちです。
haru: まさに、その時の坂くんみたいな感じだね。
saka: そうですそうです。自分自身みたいな人、同じように苦しんでいる人たちにに寄り添える
ともに模索して行けるような 人になっていきたいと自分自身で思っていました。
そういう人たちが増えていけば、社会ってとても良くなるんじゃないかと思ったんです。
働き方に悩む当事者の人たちが、何回でも再挑戦できるっていうことが当たり前になるような世の中を作れたら
社会的に幸せな人が増えていくんじゃないかと思っているんです。
自分の場合は、自分の気持ちを書き起こしたりしていてこうやって気付いていたんですが、
これは人生をかけて やるべきことだと思ったんです。
そのために自分は何ができるのか と思った時、みんなの目印になれるような、旗みたいものをしっかり立てようと思ったんです。
その旗が、今メンバーたちと一緒に運営している団体でありメディア名でもあるBlind Up.です。
同じように苦しんでいる人たちを、少しでも勇気づけることができる記事をお届けすることができたら、
自分もとても嬉しいなと思ったんです。
編集後記
今回のインタビューでは、坂くんがBlind Up. を立ち上げるに至った経緯をお伺いしました。
自分自身の経験があって、使命感を感じてこの活動を始めたこと
それまでの間、本当に苦しかったことをありのままにお話いただいて、坂くんの気持ちがすごく伝わってきたインタビューでした。
後編では、Blind Up.の活動について、これから坂くんがチャレンジしたいことについてもお伺いしました。
ぜひ、後編も読んでください。
編集長haru